三ツ石神社(3)

三ツ石神社に着いて、最初に思ったのは、よくわからない違和感でした。
「岩手県」「不来方」「さんさ踊り」の起源でもある古社にも関わらず、あまりにも小さく、そして殺風景なのも気になりました。

最初に見た岩手県HPで三ツ石の紹介がされているのに、どこにも三ツ石神社の名前が出てこないのも不自然さを感じました。

まず三ツ石神社について調べてみました。
三ツ石神社の祭神は、少彦名命と稲荷大明神。無人社です。社格が不明なので、明治以前は神社として扱われていたのか疑問です。ここでさらに疑問。南部氏初代光行公の御魂を迎えて、東顕寺は五十二石を南部氏から寄進されているのに、光行公は何故祭神になっていないのか?

岩手県HPで、三ツ石は東顕寺(とうけんじ)にあるということなので、東顕寺公式ホームページを調べてみると、これがまた疑問。歴史のページに三ツ石神社も三ツ石も無く、山内紹介の地図にも三ツ石神社も三ツ石は記載されていません。ガイドブックにも載っている観光地なのに何故。

東顕寺公式ホームページの歴史のページを見ると、気になる記載がありました。東顕寺の開基は、福士五郎政長公。福士氏は南部さんが来る前の領主。ちなみにここで出てくる南部さんとは、当然ながら盛岡藩主南部氏の事です。でも東顕寺公式ホームページでの呼び方は南部さん。

次に福士氏について調べてみると、意外な事が分かりました。盛岡市教育委員会が2008年3月に出している史跡 盛岡城址Ⅱ-第2期保存整備事業報告書-によると、南部氏の家臣であった福士氏が盛岡築城時に出奔しているという史実があります。つまり福士氏は盛岡築城時に南部氏と関係が悪化していたという事です。

これを見て、東顕寺公式ホームページにおける南部さんという呼称に納得がいきました。400年以上経っていても、福士氏に縁の深い東顕寺としては南部氏への遺恨が残っているのではないでしょうか。また移転させられたことや三ツ石神社の世話を命じられたことにも不満があるのでは。

そしてそういう方向から三ツ石神社と東顕寺の関係を見てみると、なんとなく謎が解けていきます。

東顕寺は盛岡で最も古くからある寺と言われています。そして盛岡築城時に鬼門の守りとして現在の場所に移転しています。そしてその際に三ツ石神社に南部氏初代光行公の御魂を迎えて、東顕寺は五十二石を南部氏から寄進されています。おそらくその当時から無人社、あるいは社すらなかったのでしょう。だから東顕寺に面倒見るように五十二石を寄進したのでしょう。

室町時代から200年近くこの地を支配してきた福士氏が建てた縁のある東顕寺が、南部氏の盛岡築城時に移転させられて、敷地内の三ツ石神社の面倒を見るように五十二石を寄進される。これにはひょっとしたら同時期の福士氏の出奔も絡んでいるのかも知れません。だから殿様であっても・・・南部さん。

東顕寺に比べて三ツ石神社の敷地が小さいのも、三ツ石神社拝殿が三ツ石の真横に窮屈そうに建てられているのも、三ツ石神社の祭神に南部氏初代光行公がなっていないのも、南部氏初代光行公をどこに祀っているのか分からないのも・・・・東顕寺は三ツ石神社の存在自体認めたくないのかも知れません。

msn産経のインタビューで、住職が、「神社そのものの歴史は残っていない」と、そっけなく答えているのも納得いきます。また盛岡経済新聞によると、2013年に三ツ石神社にトイレが作られたときに、費用は企業の寄付、土地は盛岡市所有、管理は地元住民となっているのも関係あるかもしれません。

ただ三ツ石神社の注目度が、東顕寺の意向に反して上がっていったことが、現在の小さくても殺風景な三ツ石神社の姿となったのではないかと考えます。本堂の裏にあり、30~40年前は草木に覆われて目立つことも無かった三ツ石神社が、岩手県や不来方の名前の由来として注目され、東北地方のお祭りとしては比較的新しいさんさ踊りの発祥の地とされ、さんさ踊りを奉納するためにスペースを取らざるをえなかったのかも。

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